占星術・心理術メモ

占星術/タロット/サビアンシンボル/心理術

実感を大切に

前に別のところで占星術やタロットカードなどについて、説明や理屈っぽいことを書いていたが、そういう文章は自分の生理というか脳というかにあまりフィットしないことに気付いた。

しかし、占星術などについて情報発信するというときにはそういう風に書かなければならないと思い込みを持っていたことに気が付いた。

自分に合うことをする方が、継続しやすいし、本当の満足感も大きいはずで、人は誰でも得意なことをするのが一番いい。

でも多くの人は、自分の素質に従うのではなくて、周りの状況を真似て空気を読んだりして、そのようにしなければいけないものだと思い込む。

その結果その人の行動はギクシャクしたものになって、下手な役者の演技を見ているかのような印象を他人に与えることになる。そういうケースは思いのほか多くて、それが普通のことになってしまっていて、そのことに違和感を持つことすら難しいかもしれない。その違和感を他人と共有しようと思っても伝わらないことも多い。

物質世界に生きている人間はいつも形から入ろうとするが、形は創造の結果であって生き生きとはしていない。生命力を感じることができるのは内的な実感からスタートするものであって、エビデンスがない。

論理的な説明というのは、後追い的な知性活動であり、小アルカナのソードのカードのように硬い。ある意味ソードとコインのどちらが硬度が高いのかわからない。風は長い時間をかけると岩をも削り取るということか。

知性に偏ることなく、占星術やタロットカードについて書いていくとなると、ルールや構造を教科書的に説明していくということにはなり難いから、少し横道にずれて実感、「感じ」を刺激するようなアプローチを探っていくということになる。

理屈を教えるということは、その理屈を押し付けることでもあって、実感はないけどそうやらそういうことらしいから覚えておこうというようになる。前提知識のない初期段階では必要なプロセスではあると思う。

苦手なことからはできるだけ逃げること、それでその逃げた通路とか脱出のスタイルにその人の創造性が表れるのではないか。

ここまで書いてきて、この文章は説明的で硬い感じがする。そうしたいのではなくてそうなってしまっている。だから、もっと論理性を崩して、流れるような訳のわからない文章にしていきたいが、散文詩を書きたいのでもない。

その理由は、流れるような感覚を味わいながら書きたいからであって、その感じが読む人に伝わるようなものがいい。学術論文のような論理的な文章を書きながらトランス状態に入ることは自分にはできそうもない。

スルスルと読み続けてしまうが、読み終わった後に何が書いてあったのか思い出すことができないようなものが面白いのかもしれない。

今日の夜中に中途覚醒の間際で印象深い夢を見た。

路上の石像を見たときに、それは生きていてこちらを見ていると感じた。その後橋の入り口で野良猫がくねくねしながら立ち上がり、着ぐるみを着た人型になった。その人物と会話をした。妄想ではないリアルな存在と会話したときに特有の統一性というか自律性のようなものを感じた。その存在が死者なのか宇宙人なのかわからない。ただ連想したのはシリウスであった。

会話の内容は今は書きたくないのだが、これもよくあることとして、自分が普段考えていることの連想を持ち込んで会話してしまったのだが、その存在は地上の人ではないので、今思うとそれはおかしいと思う。この持ち込むべきではない連想を混ぜてしまうことの意味がよくわからない。